暗黒時代の終焉-近代医学への序章その1 ヴェサリウスの活躍
■作成日 2018/4/20 ■更新日 2018/5/9
このコラムでは、医学・医療・看護の歴史や、その分野発展の上でターニングポイントとなる「ひと」「こと」「もの」などを取り上げ、ひも解いていきます。
今回は『暗黒時代の終焉―近代医学への序章 その1』として、芸術の域に達する解剖学書「ファブリカ」を残したアンドレアス・ヴェサリウスに焦点を当てます。そこにはどのような歴史物語があったのでしょうか。
全般的なこの時代のこと
前回お伝えしたガレノスの頃(2世紀)以降のヨーロッパでは、4~5世紀になるとローマ帝国の衰えとともに、芸術や科学などの知的な探究は衰退し、その後長く続くことになる「停滞した時代」に入っていました。
またカトリック教会は、キリスト教の教義に反する考えをすべて異端として弾圧していたため、世の中に存在するでろう「自由な科学的思考の発展」を妨げていました。ガレノスの医学を神学的医学の完成形とし絶対的権威と崇めていた教会は他の医学派を排除していたので、
この当時の医学とは「ガレノスが残したことを学ぶこと」に、他なりませんでした。
ガレノスから13世紀(1300年)以上も続いた長い停滞は、16世紀になってようやく終わりが見えてきました。その扉を開いたのがアンドレアス・ヴェサリウス(1514~1563)です。
医療者の家系に生まれ、デッサン力もある医師
ヴェサリウスは、ベルギーのブリュッセルにおいて、医学・薬学の家系に生まれました。
家業の影響もあり、生きものの体の構造に大きな興味があったのでしょう。幼いころからイヌやネコなどの解剖をすることもあったようです。
15歳でベルギーのルーヴェン大学に入学して芸術(絵画)を学び、5年後にはフランスのパリ大学で医学を学び始めました。しかしその2年後には戦争が勃発したため、一旦ルーフェンへと戻ります。
この頃ヴェサリウスは、必要最低限の医師の資格を取得していましたが、死刑になった犯罪者の遺体をコッソリ持ち帰り、解剖のウデを磨いていたといわれています。
「解剖」への情熱は、留まることを知らず
しかしその後もヴェサリウスは、生体と生命のしくみを究明したいという熱意を持ち続けていました。
そして23歳になったころ、イタリアのパドヴァ大学医学部で、解剖医と外科医としての職を得ます。ヴェサリウス自らの手で腑分け(人体を解剖)し、人体の内部を学生たちにじっくり見せ、「古い描写に頼らず、自分の目で今見えているものを忠実に記録させる」という、当時では非常に画期的な方式で解剖の授業をおこなっていました。
実はこの当時の解剖学の講義は、教授が「医学書を読み上げる」だけのものであり、その指示で理髪外科医が実際の腑分けをおこなうのが、一般的なやり方だったのです。その時の医学書とは、前回の当コラムでお伝えしたガレノスが残したもので、13世紀以上前に記されたものでした。
一方のヴェサリウスは、15歳の頃から学んできたデッサンのウデを活かし、時にはプロの画家に助言を得ながら、解剖学を学ぶために必要な「挿絵の山」を作り出していきました。
ヴェサリウスによる忠実な人体内部の記録は、絵画作品としても非常に価値のあるものとなり、1538年には、解剖図6枚が出版されたほどです。
これは、ヴェサリウスが描いた原画を基にして、画家が描いたものではありましたが、海賊版がつくられるほどの人気でした。この解剖図が世に出たおかげで、ヴェサリウスの名前と評判は、一気にヨーロッパ中に広がったといわれています。
ヴェサリウスはさらに、13世紀にも渡って「暗黒の時代」を築くに至った、ガレノスの著作(名称:解剖学教育)を再編集し、細部を修正した改訂版を出版します。これは、ヴェサリウスが教授に就任してから、わずか2年の間に行われました。
ところが、公開解剖を行った場で、イタリア医学界の権威と「肝臓と筋肉についての議論」を繰り広げたことで、ガレノス以来の伝統を頑なに守る立場にある人々に対し、大きな警戒感を抱かせることになります。
しかし、捨てる神あれば拾う神あり。当時のパドヴァの地方判事が、ヴェサリウスのこうした取り組みに魅せられ、「処刑された犯罪者の遺体を解剖に利用してもよい」という許可を出します。すぐにヴェサリウスは、遺体を大学の自室(居室兼)へ持ち帰りました。
ヴェサリウスが気づいた、ガレノスの「矛盾」?
イタリア各地をまわりながら、講演や授業をおこない続けていたヴェサリウスは、ガレノスの解剖書で解説されている内容(特に切開に関するもの)が、「動物を解剖したことを基にして人体と似ていると推測して書かれている(描かれている)のだ」ということに、徐々に気付いていきます。
ヴェサリウスも最初は、動物を解剖するところからスタートしていますが、ガレノスの書の「矛盾」の理由がコレだと気付いたヴェサリウスは、こうした行為は「医学知識と患者のためにはならない」と考えました。
そして、長い間医学界を閉鎖的な時代へと導いたガレノスの矛盾を正すべく、「解剖についての自身の大著を出版する!」と決意します。それからわずか2年で、現在でも語り継がれている偉大な医学書を発刊するに至りました。
閉鎖的な時代の扉を開いた、偉大な医学書「ファブリカ」
そしてついに1543年、近代医学の幕明けとなった『人体の構造に関する7つの書(De corporis humani fabrica libri septem)、通称:ファブリカ』を刊行するに至ります。この書物は、世界中の医学界に大きな衝撃を与え、ヴェサリウスは一躍時の人となります。
皆さんも、「右前腕を杖にのせている骸骨(全身)の絵」や、「片肘をついた骸骨(全身)が、もう片方の手で別の頭蓋骨に手を載せている絵」、「全身が筋肉の男性がさまざまなポーズをとっている絵」などを、目にしたことはあるのではないでしょうか。
画像引用:https://spice.eplus.jp/articles/160602/images/406400
ページの大きさは、縦42㎝×横28㎝。現在のA3 サイズとほぼ同じ大きさです。当時の人々は、このサイズにも圧巻されたことでしょう。
この書物には、次のような特徴があります。
- 11の大きな挿絵と300の図版を含む、木版画によって視覚化された人体図
- 平穏な風景を背景にして、まるで生きているかのようなポージング人体図
- ダイナミックな構図と正確なデッサンで芸術的な解剖図
- 骨格筋肉、循環器、内臓器の各系を系統的に解剖する方法を唱えている
- 人体解剖によって得られた情報を詳細にわたって解説している
ヴェサリウスは「ファブリカ」を発刊するにあたり、さまざまな発見を記しています。
- 下あごの骨は2つではなく1つ(犬の解剖により、2つだと思われていた)
- 胸骨は、7つではなく3つ(サルの解剖により、7つだと思われていた)
- 神経は空洞ではなく、中まで固い
- 肝臓よりも心臓の方が、脈管系の中心をなす
- 心臓の隔壁には左右の心室をつなぐ穴や導管はない(あると思われていた)
自分自身の経験上で得てしまった、動物の解剖結果と、人間の体の構造との矛盾にも気付きます。「動物ならこうだけど、人間は違ったのだ」という、自らの知識の誤りも訂正しながら作成されたといわれています。
さらに初版から少しあと(3か月以内と言われている)、図版の数を増やし解説を簡略化した『エピトメー』と呼ばれる簡約版を刊行するなど、当時のヴェサリウスは、非常に精力的に活動していました。これらの活動が、後にウィリアム・ハーベーを初めとする、多くの研究者たちに多大な影響を与えたのです。
まとめ
誰にも負けない情熱に突き動かされ、生涯に渡って「解剖」を続けたヴェサリウス。自らのデッサンのウデもさることながら、プロの画家に詳細な図版作成を依頼するなど、かなり画期的な方法で、一躍時の人となりました。
しかし、その波乱万丈な人生は、ある時突然、終わりを告げることになります。次回はヴェサリウスの人生後半戦について、お伝えしていきたいと思います。